那須湯本温泉・鹿の湯のすぐ上にある、史跡殺生石を見学してきました。
登別の地獄谷に比べると規模は小さいですが、硫黄の臭いがしっかりと充満しています。
「殺生石」ってこんなところ
この地に松尾芭蕉が訪れた際、奥の細道に以下のように記しています。
殺生石は温泉(いずゆ)の出づゆ山陰にあり。石の毒気いまだ滅びず、蜂、蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほど重なり死す。
※真砂の色=地面の砂の色
当時は相当量の火山性ガスが発生したと思われています。現在ではガスの噴出量は少なくなっていますが、巨石群と噴気は、当時の雰囲気を残しています。
2本の遊歩道に囲まれた賽の河原。硫黄色が残った石がゴロゴロと転がっています。
右の道を行くと 盲蛇石(めくらへびいし)が祀られています。
その昔、五左ヱ門という湯守が冬を越すために山に薪(たきぎ)を採りに行った際、大蛇に出会いました。その蛇の目は白く濁っていて目が見えませんでした。かわいそうに思った五左ヱ門は、蛇が冬を越せるように小屋を作ってあげました。
次の年、湯殿開きの日に蛇をさがしに行くと、その姿はどこにもなく、代わりにキラキラと輝く湯の花がありました。
盲蛇に対する暖かい気持ちが神に通じ、湯の花の作り方を教えてくれたのでした。
その後、湯の花の作り方が村中に広まり、村人は蛇に対する感謝の気持ちを忘れず、蛇の首に似た石に盲蛇石と名付けて大切にしました。
蛇といえば怖い気がしますが、人の恩というものを大事に受け取って恩返ししてくれたのですね。
湯の花採取場。
その先には教傳(きょうでん)地蔵が現れます。
奥州白川の蓮華寺に「教傳」という小坊主がいました。
彼は生まれながらの悪童で、心配した母がこの寺に預けたのですが、教傳が前住職の跡を継ぎ、母と一緒に寺に住むようになってもその性根は直りませんでした。
ある日、彼が友達と一緒に那須温泉に湯治に行くことになり、その日の朝、母が用意した朝食を、悪口を言いながら蹴飛ばして出発してしまいました。
那須温泉に到着し、殺生石を見学しようと賽の河原付近まで行くと、青空が一転し、雷鳴が地面を揺るがし、大地から火炎熱湯が噴出しました。
友人は逃げ去りましたが、教傳は一歩も動くことができず、
「俺は、母の用意したお膳を足蹴りにした天罰をうけ、火の海の地獄に堕ちて行く。」
と、大声をあげてもがき苦しんでいました。
友人は助けようとしましたが、腰より下が焼けただれ息を引き取ってしまいました。
それからも教傳の引き込まれた場所は泥流がぶつぶつと沸いていましたが、いつしか山津波に埋まってしまいました。
その後、湯本温泉の有志が地蔵を建立して地蔵を建て供養を行うと、親不孝の戒めとして、参拝するものが後を断たなかったということです。
自分の悪い行いがまいた種とはいえ、とても恐ろしい話です。
さらに先へ進むと、殺生石が現れます。ちょうど正面の斜面の部分です。
昔、中国やインドで美しい女性に化けて悪さをしていた白面金毛九尾(はくめんきんもうきゅうび)の狐が、およそ800年前に日本に渡り、「玉藻の前(たまものまえ)」と名乗って朝廷に使え、日本を滅ぼそうとしていました。
その正体を陰陽師に見破られると、狐は那須野ヶ原まで逃げてきました。ここでも悪さを繰り返していたので、朝廷の命で九尾の狐を退治しました。
すると、狐の姿は毒石になり毒気を放ち始め、近づく人や獣を殺し続けました。
これを聞いた泉渓寺(せんけいじ)の源翁和尚(げんのうおしょう)が毒石に向かってお経をあげ続けると、一筋の白煙とともに玉藻の前の姿が現れ、石が三つに割れて飛び散り、一つがここに残りました。
それ以来、この石を殺生石と呼ぶようになり、今もなお祀られています。
最後に
「奥の細道の名勝地」として指定された殺生石は、那須観光の観光名所でありながら、あの世の雰囲気を漂わせるミステリースポットです。
数々の伝説も残っており、那須に足を運んだ際は、一度は訪れてほしい場所です。